Vol.2「時の流れとデザイン、そしてプロデューサー制度」

1913年、大正2年。祖父の政太郎が「表現社図案所」を設立した。現存しているデザイン事業所としては関西最古?だと京大の宮島教授が調査された。
翌年にはドイツに参戦して第一次世界大戦に突入し、領土の拡大、好景気が続いた。「全国各地は勿論のこと、満州・支那方面からも依頼者が殺到…」と当時の雑誌に記録されている。賄いや筆洗を洗っていた祖母の話では「筆を手拭いで包んで、帯に差して通ってきた」らしい。デザインが徒弟制度時代であった。
その後、戦後の恐慌と関東大震災があり、経済は大打撃を受けたものの、大正末期には景気が回復し、大正ルネッサンスと呼ばれている文化・芸術が花を開いた。しかし、昭和に入り、金融恐慌・政界恐慌が起こり、農産物・繊維産業などが大打撃を受け、農村での身売りや都会での失業が増大し、社会不安を招いた。そのことが無理な侵攻策になり、軍部の右翼化を招いて大陸侵略・真珠湾攻撃に繋がった。
第二次世界大戦が終わり、1946年6月に復員した父は「虚脱」状態で毎日焼跡の絵ばかり描いていたそうだ。デザイン界が積極的に動き出したのは、戦後6年目の1951年だった。日宣美が創立され、グラフィックデザインの戦後がスタートした。また、プロダクトの世界では、松下幸之助氏の「これからはデザインの時代や」と有名な言葉が出た。1957年にはダイエーの1号店ができ、大量生産・大量販売の流れが出来上がった。
1960年には世界デザイン会議が東京で開催され、デザインが社会の認知を得だした。1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博、1975年のKDOU(ODOU)の設立を経て、デザインは順調に世界のレベルへと上がっていった。バブルの崩壊の90年代まで…は。
2005年、長い暗闇からやっと灯りが見えてきたが、以前の活況はもう取り戻せない。バブル崩壊の裏には産業構造の変化が潜んでいたからである。
かつて、この国のビジネスモデルは、安価な材料を輸入・加工し、大量生産・大量販売する事であり、デザインはそのための手段であった。言い換えれば、産業がデザインを利用した時代と言えよう。しかし、そのモデルはもう存在しない。アジアの新興国へ移転してしまった。
資源が乏しく、人件費が高いこの国の次世代ビジネスモデルは「知と技とデザイン」が産業をリードする型をtらなければ存在理由がない。言い換えれば、デザインが産業を引っ張っていく時代が到来してきたと言えよう。
デザイナーはより一層、高度なデザイン力、マネージメント力、プロデュース力が要求されるであろう。

KDOUはそのための準備として、越田理事長のもとに「プロデューサー認定制度」に取り組んでいる。時代の流れをデザイナーの手許に引き寄せる計画である。デザイン界・KDOUのために、ご協力・ご尽力をお願いしたい。
主体性を持ち、時代や産業をリードしていく心構えを持ったデザイナー達がこのKDOUから育って欲しいと願う。
最後に、一世紀にも満たない我がデザイン事業所であるが、時の大きな渦の中で翻弄されてきた。一デザイナーとして、平和で豊かな時代が続く事を願うとともに、微力を注ぎたい。

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